人間やってきて、20歳にもなれば「自分らしさ」なるものがどんなものか、
いいかげん、わかってくるものです。
「自分らしさ」は、個性とか人格とかいうものと捉えてもいいかもしれません。
でもね、この「自分らしさ」っていうものはやっかいなものでして、
あるグループの中では、そこにいる自分を「自分らしい」って感じられても、
別のあるグループにいる時は、何だか居心地がよくなくって、
「自分らしさ」が全然発揮できてないなぁって感じる時があったりするわけです。
これはワタシが実際に経験したことです。
大学に入学したワタシは、そこですぐに4~5人と顔見知りになり、
行動を共にするようになりました。
ある日、そのうちの3人がワタシの4畳半一間の狭いアパートに押しかけてきました。
入ってくるなりテレビをつけて、
やれ、「この歌手はかわいい」だとか勝手に盛り上がっているわけです。
家主のワタシをそっちのけで。
当のワタシはその光景を別世界の出来事のように見ているしかありませんでした。
「この人たちは何なのだろう?」
「ワタシの部屋に押しかけてきて勝手にテレビを見てるだけ」
今思い返すに、「あの集団では自分らしさが全然出せなかったんだな」と。
他の集団では自分を素直に出せて、気持ち良く過ごせるのに、
この集団にいる時は、何だか居心地の悪さを感じて全然楽しめない。
同じワタシという人間なのに。
ワタシは2重人格(多重人格)なのではないか?
はるか昔のことなのに、このことがずっと頭の隅に居座っていました。
平野啓一郎=著『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』を読みました。
そこに出てきた「分人」という考え方に触れ、納得しました。
これなんだな、です。
あの時のワタシは、これは「本当の自分」ではないんだ。
今は、「仮面」を被っているんだ。
ただ「キャラ」を演じてるだけ。
そういうふうに捉えようとしていました。
でも、このズレは当時の自分自身には大変ストレスだったのです。
この本を読んで、「分人」という考え方がスッとワタシの中に入ってきました。
「「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。」
「中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。」
この考え方を、「分人主義」と呼ぶそうです。
・・・ということは、勝手にテレビを見てる連中といるときの自分も「本当の自分」だし、
気の合う仲間と楽しくしてるのも「本当の自分」、ということですね。
二重人格かな?とか思って自己嫌悪に陥る必要もなく、
ただ、嫌いな「自分」がいるなと思ったときは、「分人」の一つに過ぎないと考えて、
さっさと別の環境に移動して、心地よい「自分」が現れる人間関係を増やしていけばいいんですね。
なるほど、こんなふうに考えれば、無駄に自己嫌悪に陥ることも減ってくるかも。
これは、目から鱗の考え方かもしれない!と、思いました。