モヤモヤを抱えて今日も生きる。

とかくこの世は生きにくい。日々モヤモヤを抱えて生きています。モヤモヤジャンルは本・子育て・教育・映画・ニュース・社会などです。あなたに響けば幸いです。

公園の木が、木が・・・ないーっ!?

二度見してしまいました。

 

公園の木が、木が・・・なくなっちゃいましたーっ!

 

ある日、仕事から帰ってくると、

 

近所の公園の巨木がなくなっていました。

 

もう、びっくりです、目を疑いました。

 

近所の二階建てのお家よりはるかに大きなクスノキが、

こんな姿に変わり果てているではないですか。

 

いやっ、ショックです。

 

樹齢、ゆうに20年越えだと思います。

 

いやっ、それ以上。

 

まっ、確かに、大き過ぎてちょっと心配していたのです。

 

住宅地の中の小さな公園ですから、

 

風の強い日なんか、枝が折れて近所の家や人を直撃しないかと。

 

しかし、いきなりですから、びっくりです。

 

管理者の市も大胆というか、大雑把というか。

 

こまめに剪定をしている余裕はない、ということか。

 

維持費のことを考えると、こういうことになってしまうのか。

 

それにしても、世知辛い。

 

景観的にも殺風景で、なんとも寂しい。

 

なんとかならなかったのか。

 

どこも、こんな感じなのでしょうか。

 

そういえば、近くの学校でも、重機を入れて桜の木の大規模な枝おろしをしていました。

 

そこまで切ってしまうのォーっ?!って叫びそうになるくらい。

 

もうすぐ、花が咲き始めるだろうこの時期にですよ。

 

芽吹きにも影響が出るでしょうに。

 

もうちょっと、どうにかならない?って感じです。

 

諸事情があるのでしょうが・・・、

 

ワタシにも少なからずショックなのだから・・・

 

子どもたちは、どんなふうに感じたのだろうか?

 

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谷川俊太郎✖️ブレイディみかこ🟰?が楽しみ!

詩人とライターの往復書簡を読みました。

 

詩人とは言わずと知れた詩の大家・谷川俊太郎さんで、

 

ライターとは「地べたのライター」と自ら名乗るブレイディみかこさんです。

 

その世とこの世』というタイトルの本です。

 

ワタシにとってはお2人とも興味関心を引かれる方ですので、

 

どんな化学反応が楽しめるのかと、ワクワク気分でページをめくりました。

 

面識のないお2人の手紙のやりとりですが、

 

これは、『図書』編集部の発案だとか。

 

このお2人を結びつけるとは、かなりの策士ですな。

 

そして、見え隠れするのが、作家の高橋源一郎さんの存在です。

 

NHKラジオの番組『飛ぶ教室』のパーソナリティですが、

 

いきなり、この番組の話題でブレイディみかこさんの話が始まっています。

 

偶然と言うには、うまくタイミングが合いすぎています。

 

人生にはこういうことってあるもんなんですよね。

 

こんな感じですー

 

ブレイディみかこさんは番組の後半の「新春座談会」に出演したのですが、

 

なんと、その番組の前半に谷川俊太郎さんが出演していたとか。

 

面識もない「谷川さんへの手紙を書く」という大仕事を抱えているときに、

 

当の本人とニアミスするわけですからね、どんなめぐりあわせ?

 

と、びっくりするのも無理ないですよね。

 

また、ブレイディみかこさんが、高橋源一郎さんとオンラインで対談した際、

 

源一郎さんが、「すごい本を読んだ」って紹介したのが谷川さんの『ぼく』という絵本で、

 

このとき、ブレイディみかこさんはその本を既に持っていたとか。

 

単なる偶然なのか、はたまた必然なのか。

 

人は会うべくして人と巡り会うのか。

 

まだ、他にもこんなのがあります。

 

谷川さんの『あるとない』という詩の誕生秘話です。

 

この作品は、「ジャック・ロンドンの『どん底の人びと』を読んだ谷川さんが、「自分は貧困を書いたことがない」と考えて書いた作品」だったようです。

 

そして、ブレイディさん曰く、「わたしの座右の書と言ってもよい一冊なのです。時々、わたしの人生はこの本に遠隔操作されているのではないかと思うほどです。」

 

・・・というところなどは鳥肌ものです。

 

こんなことが自分の身に起こったら、もう大興奮です。

 

手紙のやりとりの後半では、谷川さんがこんなことも書いています。

 

「私がブレイディさんのお便りにちっとも応えていないと源一郎さんに言われてしまったので、・・・」

 

ときどき、こうやって源一郎さんが茶化しているのも想像するとおもしろい。

 

温かいつながりをうらやましく思います。

 

詩人と地べたのライターの往復書簡は一見かみ合っていないようにも見えますが、

 

イヤイヤ、結構、考えさせられる。

 

こういうやりとりも刺激的でおもしろいものですね。

 

一年半の手紙のやりとりだったそう。

 

読んでいる方も、何が出てくるのか楽しみでした。

 

この世は他人だらけである

 

他人でないのは自分だけだと思うと

 

寂しい

 

最後の手紙にあった「自分だけ」という谷川さんの詩の終わりの3行です。

 

う~ん、詩っていうのは余韻を残すなぁ~

 

 

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皆勤賞の記念品はどら焼きだって

年度末ですねぇ。

 

卒業のシーズンだったりもします。

 

皆勤賞の記念品はどら焼きだって。

 

そんな声が聞こえてきました。

 

どら焼きって何で?どうして?

 

皆勤賞にどら焼きって、なんかしっくりこなかったもんで。

 

今どきの若者に、どら焼きって魅力的なんですかね。

 

そんなふうに思っていたら、どら焼きが頭から離れなくて。

 

どら焼きって、何でどら焼きっていうの?

 

ドラえもんは関係ないよな。

 

どらやき、ドラヤキ、どら・・・

 

あっ! 打楽器のドラかぁ!!!

 

・・・という具合に閃いたわけです。

 

これ、ぜったい当たってる!

 

なんか、すっごく嬉しくなっちゃって、ひとりニヤニヤ。

 

自分で問いを立てて、何にも頼らず答えに辿りついたのが嬉しくて。

 

そして、早速ネットでチェック!

 

当たり!

 

まっ、諸説あるようですが・・・

 

それにしても、便利な世の中ですね、ネットのある現代は。

 

昔だったら確かめる術もなく、しばらく悶々と。

 

こんなに時代は変わったのに、皆勤賞なんてまだやってるのぉ?

 

どら焼きもなんか古風だけど、皆勤賞はもっと違和感です。

 

休まなかったら表彰されるなんて、今どきどーなの?

 

健康でよかったね、ですけど。

 

賞をもらえるようなものなのですか?

 

あっ、皆勤賞をもらう人に文句を言うつもりはありませんよ。

 

1年間なり、3年間なりを休まず出席したなんて、すごいとしか思えない。

 

他人から褒められなくても、すごいことです。

 

自分で自分を褒めてあげましょうよ。

 

そして、休んじゃった人も自分がダメだってことじゃないですから、

 

みんな、自分で自分の褒められるところを見つけられたらいいよね。

 

どら焼きのドラって、打楽器の銅鑼だ!と思いついたワタシってすごいっ!

 

これでいいのだ!

 

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体育がきらい、でしたか?

『体育がきらい』という本を見かけて思わず手に取ってしまいました。

 

何に惹かれたのか? 何を求めてなのか? 自分でも謎です。

 

学校の体育は別段好きでもなく、そうかといって嫌いというほどでもありませんでした。

 

しかし、「嫌いだ!」という人が相当数いるだろうことは容易に想像ができます。

 

鉄棒の逆上がりができずに、残って練習している級友を見ていたし、

 

長距離走では、みんなからずっと遅れて走る苦しそうな友を見た。

 

なんか残酷・・・

 

自分があんなふうに晒されたらどうだろう?

 

そうなんですよね、体育の時間って晒されるような気がする。

 

この本にもそんなことが書かれていました。

 

この本は体育の先生が書いたものです。

 

「「体育ぎらい」についての理解が少しでも深まるように」と。

 

「「体育ぎらい」の原因や背景について、改めて正面から考えてみた」ということ。

 

そういえば、体育着も好きじゃなかったなぁ。

 

「体育座り」も「前にならえ」も。

 

体育の先生も元気というか、威圧的な先生も多くて。

 

体育の先生 = 生徒指導の先生というイメージを持っている人も多いでしょう。

 

体育の先生って軍人的、なんて表現もこの本の中に出てきました。

 

そういえば、「気をつけ!」や「休め!」も軍隊の名残?

 

体育の先生ってすぐにわかりますよね。

 

それっぽい、っていうか。

 

先生から変わらないと「体育ぎらい」は減らないかも。

 

あっ、いつのまにか体育の先生の悪口になってました、ね。

 

ごめんなさい。

 

でも、体育の先生には、一度「体育ぎらい」の目線で体育の授業を見直してほしい。

 

また、「体育ぎらい」だった人にどんどん体育の先生になってもらいたい。

 

身体を動かすって、本当は楽しいんだ!ってことを信じたい!

 

体育の先生! おねがいします、よ!

 

 

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高校生の日記がすごい!

他人の日記を読むことはおもしろいです。

 

こんなふうに言うと、悪趣味で不謹慎に聞こえるかもしれませんが、

 

とくに、若い人の日記というものがおもしろいですね。

 

なんでなんだろう?

 

そんなことを思いながら、書棚を眺めていたらこんな本を見つけました。

 

『高校生の日記』という本です。

 

相当に古い本なのですが、捨てないでとっておいてありました。

 

高校生から日記を提供してもらって、それを資料として青年の心理を解明しようとした本です。

 

「誰にも知られたくないが、しかし最良の理解者にだけは知ってほしい内面の世界が、日記に書き記される。」

 

だからですね、他人の日記を読むのはちょっと後ろめたい気がします。

 

でも、のぞいてみたい!

 

しかも、「青年の日記は主観的内面世界の告白でもある」のだそうです。

 

その点、児童や大人の日記が事実の記録になっているのと大違いです。

 

だから若い人の日記はおもしろい、ということか。

 

アンネの日記』も、そうでした。

 

この≪隠れ家≫の生活の中では、おとなのほうがもっと苦労していると主張する人たちは、私達にのしかかっている問題の重さがどれだけのものか、認識していないのです。これらの問題とまともに取り組むには、たぶん私達は若すぎるでしょう。けれどもそれは、たえず目の前につきつけられているので、長いあいだには、なんとか解決策を見いだすことをしいられるのですが、その解決策もどうやら、現実という武器には抵抗できず、たちまち雲散霧消してしまうみたいです。こういう時代のむずかしいところはそこです。私達の中に芽生えた理想も、夢も、大事にはぐくんできた希望も、おそるべき現実に直面すると、あえなく打ちくだかれてしまうのです。じっさい自分でも不思議なのは、私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実ばなれしていて、とうてい実現しそうもないと思われるからです。にもかかわらず、私はそれを捨てきれずにいます。なぜならいまでも信じているからです―たとえいなやことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。 ([グラフィック版]アンネの日記より引用)

 

これは、アンネが15歳の時につづっていた日記の一部です。

 

1944年7月15日の日付ですから、日記の最終盤です。

 

若者の日記の最高傑作です。

 

アンネじゃなくても、こんなことを書いていた日本の高校生がいました。

 

「学問の道はあんなに広いのに、なぜそこに至るまでの道が狭いのだろうか。学問はすべての人が自由にできるものでなくてはいけないのだ。そのために大学があったのではないか。今の大学へ入るにはテクニックと暗記の勝負とは情けない。仕方ないではすまされぬ。」

 

「僕は教科書を通して先生から学びたい。人生とは何なのか、生きるとは何なのか、青春とは何なのか。僕は先生から学びたい。先生の考えを大いに述べていただきたい。」

 

先の本『高校生の日記』からの抜粋です。

 

なんか、すごくないですか。

 

昔の高校生だからなのかなぁ?

 

イヤイヤ、今の高校生だって、きっと・・・

 

 

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こんな自分は嫌いだっ!と思ったときは、

人間やってきて、20歳にもなれば「自分らしさ」なるものがどんなものか、

 

いいかげん、わかってくるものです。

 

「自分らしさ」は、個性とか人格とかいうものと捉えてもいいかもしれません。

 

でもね、この「自分らしさ」っていうものはやっかいなものでして、

 

あるグループの中では、そこにいる自分を「自分らしい」って感じられても、

 

別のあるグループにいる時は、何だか居心地がよくなくって、

 

「自分らしさ」が全然発揮できてないなぁって感じる時があったりするわけです。

 

これはワタシが実際に経験したことです。

 

大学に入学したワタシは、そこですぐに4~5人と顔見知りになり、

 

行動を共にするようになりました。

 

ある日、そのうちの3人がワタシの4畳半一間の狭いアパートに押しかけてきました。

 

入ってくるなりテレビをつけて、

 

やれ、「この歌手はかわいい」だとか勝手に盛り上がっているわけです。

 

家主のワタシをそっちのけで。

 

当のワタシはその光景を別世界の出来事のように見ているしかありませんでした。

 

「この人たちは何なのだろう?」

 

「ワタシの部屋に押しかけてきて勝手にテレビを見てるだけ」

 

今思い返すに、「あの集団では自分らしさが全然出せなかったんだな」と。

 

他の集団では自分を素直に出せて、気持ち良く過ごせるのに、

 

この集団にいる時は、何だか居心地の悪さを感じて全然楽しめない。

 

同じワタシという人間なのに。

 

ワタシは2重人格(多重人格)なのではないか?

 

はるか昔のことなのに、このことがずっと頭の隅に居座っていました。

 

平野啓一郎=著『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』を読みました。

 

そこに出てきた「分人」という考え方に触れ、納得しました。

 

これなんだな、です。

 

あの時のワタシは、これは「本当の自分」ではないんだ。

 

今は、「仮面」を被っているんだ。

 

ただ「キャラ」を演じてるだけ。

 

そういうふうに捉えようとしていました。

 

でも、このズレは当時の自分自身には大変ストレスだったのです。

 

この本を読んで、「分人」という考え方がスッとワタシの中に入ってきました。

 

「「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。」

 

「中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。」

 

この考え方を、「分人主義」と呼ぶそうです。

 

・・・ということは、勝手にテレビを見てる連中といるときの自分も「本当の自分」だし、

 

気の合う仲間と楽しくしてるのも「本当の自分」、ということですね。

 

二重人格かな?とか思って自己嫌悪に陥る必要もなく、

 

ただ、嫌いな「自分」がいるなと思ったときは、「分人」の一つに過ぎないと考えて、

 

さっさと別の環境に移動して、心地よい「自分」が現れる人間関係を増やしていけばいいんですね。

 

なるほど、こんなふうに考えれば、無駄に自己嫌悪に陥ることも減ってくるかも。

 

これは、目から鱗の考え方かもしれない!と、思いました。

 

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『アンネの日記』

アンネの日記』はご存知でしょうか。

 

知っているけど、読んだことがあるか?と訊かれると・・・

 

ワタシ自身、覚えていません。

 

たぶん、一部分は読んだかもしれないけど、

 

最後まで全部読んだかどうかは、確かな記憶がありません。

 

[グラフィック版]アンネの日記』を読みました。

 

もともと500ページ近い大著をアンネ・フランク財団監修のもと、

 

150ページのグラフィック版にまとめたものです。

 

オリジナルの日記のわずか5パーセントしか取り入れていないということですが、

 

翻案者であるアリ・フォルマンの編集が見事で、

 

大人が読んでも読み応え十分だと思います。

 

おかげで、現代の多くの子どもたちや若者がアンネの文章に触れられるのは素晴らしい。

 

1942年、13歳の誕生日にアンネは日記帳をプレゼントされます。

 

「見たとたん、特別な存在だとわかりました! 今後はわが友「キティー」と呼ぶことにしましょう。あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを、何もかもお話しできそうです。どうか私のために、大きな支えとなぐさめになってくださいね。」

 

13歳の少女の不安、恐れ、怒り、愛がみごとな表現力でつづられています。

 

同年代のみならず、おとなにとっても刺激的です。

 

映画『フリーダム・ライターズ (字幕版)』の中で、登場人物の一人エバが、

 

アンネの日記」を読みながら感情移入していく姿が印象的でした。

 

アンネの日記」には、そんな力があるのだと思います。

 

ぜひ、一人でも多くの若者が手に取ってくれることを願います。

 

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