「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
2015年8月に発表された安倍晋三首相(当時)の戦後70年の談話です。
そうですよね、戦争当時にはまだ生まれてなかったんですから責任ないですよね。
国の首相がこういう覚悟をもっていてくれるのは頼もしい。
でもね、だからと言って、やったことすべてを忘れてよいって話じゃない。
被害を受けた国の人たちが覚えているのに、加害者側が忘れちゃダメでしょ。
「なかったこと」にしちゃダメでしょ。
そんな国は他国から信頼されるはずがありません。
ワタシはこの本『集団に流されず個人として生きるには 』を読んで暗い気持ちになりました。
「日本は記憶しない。閔妃暗殺事件や南京虐殺、従軍慰安婦だけではない。300人以上のオーストラリア・オランダ兵捕虜が殺害されたラハ飛行場虐殺事件、市民10万人が殺害されたマニラ大虐殺、3000人以上を人体実験で殺害した731部隊。まだまだいくらでもある。日本国や日本人が加害する側としてかかわった虐殺は決して少なくない。」(P.213)
加害した側の国民が忘れちゃったらダメでしょ。
そんな国を信用することなんて、誰もできません。
ましてや、被害を受けた側の国民は言わずもがなです。
同書に、先の大戦でともに戦った同盟国のドイツのことが書かれています。
戦争メモリアルデーについての記述です。
ドイツでは1月27日と30日が重要なのだそうです。
「1月30日はヒトラー組閣の日で、27日はユダヤ人絶滅を目的に作られたアウシュビッツ強制収容所解放の日です。」
日本のメモリアルデーといったら、終戦の日と長崎・広島に原爆が落とされた日ですよね。
この違いにハッとしました。
著者の森達也さんもこんなふうに書いています―
「このとき僕は、しばらく唖然としていたと思う。だって真逆なのだ。ドイツにおける戦争のメモリアルは戦争の始まりと自分たちの加害。これに対して日本は、戦争の終わりと自分たちの被害がメモリアル。」(p.189)
だからドイツの人たちは「なぜ自分たちはナチスとヒトラーをあれほど熱狂的に支持したのかと、戦後もずっと考え続けている。自分たちの加害行為をメモリアルにするから、なぜ自分たちがあれほどに冷酷で残忍なことができたのかと悩み続ける。」(p.189)
「でも戦争の終わりを起点にする日本の人たちは、敗戦からの復興を大きな物語として提供されてきた。原爆や東京大空襲など自分たちの被害をメモリアルにするから、アジアに対しての加害行為を忘れてしまう。」(p.190)
「一人ではしないことも、みんなと一緒だとしてしまうのはどうしてなのか?」
「個人として生きるにはどうしたらよいのか?」
この本にはこんなことが書かれています。
ちょっとキツイけど、逃げちゃダメだって思う。
最後には森さんのこんな言葉がやさしく響きました。
「そしてあなたは気づく、世界はもっと豊かだしやさしいのだと。」