「しあわせになれる石、100万円です」
これで買う人が現れたら商談成立ってことになります。
「ちょっと待って!よく考えて!それだけの価値があると思う?」
あなたが買う気満々でいるところに、第三者がこんなふうに言ってきたらどうしますか?
「だまされているんだよ、ぼったくりだよ。」
「しかも、持っていれば幸せになれるなんて、あやしいでしょ?きっと何かの宗教だよ」
「気づかせてくれてありがとう」となれば、それはそれでオッケーなのですが・・・
「私がいいと思ってるんだから邪魔しないで!」
こんなふうな展開になるとやっかいです。
止める方は、「現実を見て!」って必死になります。
これは善意からの行動だと思うのです。
身近な人がだまされるのを、ただ傍観してはいられないですからね。
でも、この小説を読んでわからなくなっちゃいました。
本人が少しぐらい騙されても、そこに幻想を持ってちゃいけないのか?
この石をゲットするのに100万円出してもいいって思えたらそれはそれで幸せ。
それも許さず、「現実」に引き戻そうとするのは傲慢。
もしかして、それはもはや一種の宗教?「現実」教?
そんなことを考えさせられたのが、この本の第一篇の「信仰」でした。
村田沙耶香さんの作品は初めてでした。
この本には小説やエッセイが8篇納められているのですが、不思議な感覚です。
第6篇の「気持ちよさという罪」にも共感するものがありました。