モヤモヤを抱えて今日も生きる。

とかくこの世は生きにくい。日々モヤモヤを抱えて生きています。モヤモヤジャンルは本・子育て・教育・映画・ニュース・社会などです。あなたに響けば幸いです。

親が子どもをいじくりまわしてダメにする?

子育て中の親御さんにはちょっときつい言い方かもしれませんが、

 

あながちハズレではないのかとも思います。

 

非行は言わずもがな、不登校、ひきこもり、受験競争、無気力などなど昨今の子どもたちをめぐる状況は深刻です。

 

子育て中の親御さんだったら、無関心ではいられません。

 

あれこれ先回りして、いろんな手立てを打ちたくなります。

 

それこそが愛情であり、親の務めと考えている向きもあるかもしれません。

 

でもね、その「愛情」が子どもを追い込んでしまうってことがあるかもしれない。

 

このことをちょっと考えてみるのも大事だと思います。

 

そもそも、子育ての失敗なんて他の動物にはないでしょう。

 

私たち人間が生きていく社会が複雑だから、教育が必要になります。

 

ここに子どもをダメにする危険性が潜んでいることを自覚した方がいいかも。

 

心していないと、子どもをいじくりまわしてダメにしてしまう危険があるかもしれないってことです。

 

岸見一郎さんの『絶望から希望へ~悩める若者と哲学者の“幸福”をめぐる対話』という本を読みました。

 

哲学ゼミの形をとった、講師の岸見さんと若者との対話の本です。

 

ワタシは子育ての本としても親御さんたちには有益なんじゃないかと感じました。

 

本のあとがきにありました。

 

「『私の人生だから、自分で決める』といわなければなりません。」

 

「親が間違ったことをいったら、これを指摘できなければなりません。」

 

「親だけではありません。世間の常識も教師や職場の上司にも、無批判に従うのではなく、疑わなければなりません。」

 

目の前の子どもをこういう人間になるように育てなければならないのだと思います。

 

そうでないと、子どもが幸せになれないからです。

 

この本は、子育て中の親御さんにも、悩んでいる若者にも役に立つと思いました。

 

岸見さん自身が「私自身が若かったときに聞いてみたかった話をしました。」と書いています。

 

読むと楽になります。

 

でも、実践は難しいかも。

 

でもでも、もう後戻りはできないですね。

 

ワタシもこれで行こうと思いました。

 

 

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なんで本を読むんだろう?

読書好きだと自分でも思います。

 

じゃぁ、どうして本を読むんだろう?

 

決まってるじゃない、楽しいからだよ。

 

読書が楽しいのはわかりますが、今どき楽しいことって言ったら他にもあります。

 

若者の読書離れが言われるようになってから久しいですよね。

 

ことさら、若者に「本を読め!」という気にはなりませんが、

 

本が好きっていう若者に出会うと嬉しいです。

 

なぜ本を読むのか? こんなふうに答えていた人がいました。

 

「なぜ読むのかといえば、頭のよくない僕みたいな人間は、忍耐強く考えないといけない。良い本は考えさせる力を持っているんですね。」

 

フロントランナー(朝日新聞8月6日付)に取り上げられた、島田潤一郎さんです。

 

この方、一人出版社「夏葉社」の代表です。

 

さらに、こんなふうにも話しています。

 

「知識を得て考え、話し合い、断定を保留しないといけない。意見の違う相手も、悩んでいると想像したい。読書はその力を磨くのです。」

 

たしかに、決めつけちゃいたいんですよね。

 

そうすれば、楽だから。

 

でも、決めつけちゃうと、その向こうにあるのは排除なんですよね。

 

人となんとかやっていくには、決めつけない、人はみんな間違うということ、これを肝に銘じていなくてはならないような気がします。

 

読書は、それを常に思い出させてくれる、ワタシにとってはそんなものなのかもしれません。

 


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『ミーツ・ザ・ワールド』がなんか新鮮だったァ

金原ひとみの小説『ミーツ・ザ・ワールド 』を読みました。

 

なんか新鮮でさわやか?読んでいて愉しかったです。

 

何が新鮮かって?

 

彼女の作品なのにセックスシーンが一つも出てこないのです。

 

蛇にピアス』以来、そんなに好きな世界ではないのに関心をもって読んでいました。

 

自分の世界にない世界感が感じられたから無理して読んでいるところもありましたね。

 

でも、今作品は読んでいてちょっとほのぼので共感できるところもたくさんありました。

 

金原ひとみ作品から毒気を抜いたらこんな感じになりました!

 

ワタシにとっては、そんな作品です。

 

これだったら、自信をもって人に薦められそうです。

 

主人公は27歳の腐女子の銀行員。

 

この年齢まで男の人と付き合ったことがない恋愛未経験者の由嘉里。

 

主な登場人物は、死にたいキャバ嬢のライと、女性言葉で話す40代のゲイバーのママ?

 

それに、ホストクラブでナンバーワンを自称するアサヒと、

 

読みにくい・暗い・人が死ぬ小説ばかり書いている29か30歳くらいの小説家ユキ。

 

ユキは幽霊みたいだったり少女みたいだったりする奇妙なおんな。

 

物語は人生2度めの合コン帰り、新宿歌舞伎町で泥酔している由嘉里が

 

ライに「大丈夫?」って声を掛けられるところから始まります。

 

ワタシには、主人公たちの関係性が絶妙で妙に暖かさを感じたりします。

 

これ、絶対映像化されますね、きっと。

 

主人公は誰がやるんだろう? オシンはきっとあの役者だな!?

 

想像するとおもしろいです。

 

刊行記念インタビューが読めます。

https://www.bungei.shueisha.co.jp/interview/meetstheworld/

 

 

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終戦記念日に思う、自分がすべきこと

また、この季節がやってきた。

 

この季節は夏休みでもあり、お盆があるからかもしれませんが、何となく独特の雰囲気がある時期です。

 

それは、終戦記念日がちょうどこの時期に当たるということが大きいかもしれません。

 

そのちょっと前には、広島・長崎の原爆投下の日もあるし、

 

御巣鷹山での日航機事故というのも重なっているからかもしれません。

 

人の命について思うことが多いような気がします。

 

この時期になると、マスメディアでは戦争に関する記事が多くなります。

 

新聞の投書欄にもそれにまつわる話がいくつかありました。

 

その中でも目に留まったのが2人の大学生の投書です。

 

ひとつは第五福竜丸について書かれたもの、

 

もう一つは広島の原爆についてのものでした。

 

どちらも実際に展示館なり戦争展を訪れて体験者の声に何かを感じたというものです。

 

原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」(第五福竜丸の無線長)

 

「私たちは一年中被爆者だけれど、他の人は8月6日だけが戦争記念日」(ある被爆者)

 

今年はウクライナとロシアが戦争状態で迎える夏です。

 

改めて感じるのは、戦争を始めるのは政治家たちで戦争をさせられるのは国民だということ。

 

実際に戦争させられるのは私たち普通の人々だってことです。

 

「日本も隣国が攻めてきたときのことを考えなくてはならない」とか、

 

「平和、平和といっていても国は守れない」などの発言を聞くと心配になります。

 

この議論に私たち普通の人が乗っかってしまうのは危ういことではないか。

 

こんなことをしていると、いつか「戦争やむなし」になってしまうのではないかと。

 

私たちがすべきことは、先の新聞に投書した大学生がしているように学ぶこと。

 

つまり、戦争になったら私たちのような普通の人がどうなるかを知ることです。

 

若者は兵士として戦場に駆り出され、他の者は命の危険にさらされながらの苦しい生活が待っているのです。

 

若者には知ってほしいです、戦争によって普通の人々がどうなってしまうか、を。

 

私たちがするべきことは、戦争を体験した人たちの言葉に耳を傾けることじゃないか。

 

ワタシのすべきことは、出来るだけ多くの声を聴いて考えること。

 

これからは時期を選ばず、戦時下に生きた人たちの声を意識して聴いていこう。

 

若者の学びを目にして、改めてそう思いました。

 

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「暮らすって物入りね」

「生活するってお金がかかるんだなぁ」

 

朝日新聞の投書欄に載っていた19歳の予備校生の言葉です。

 

一人暮らしを始めて気づいた電気代の高さ。

 

さんざん親に言われてきたことが、「一人暮らしを始めて、初めてその意味を理解した」

 

自立の大事な一歩ですよね。

 

「暮らすって物入りね」

 

ワタシにとっては、この言葉がまさにそれです。

 

宮崎駿さんが「魔女の宅急便」の中でキキに語らせたセリフです。

 

ワタシにとっての名言です。

 

実感としてグーンと迫ってきます。

 

先の投書者も言っているように、「散々母に言われてきたこと」が実感をもって迫ってくる瞬間です。

 

こういうのが大事だなぁって思うのです。

 

子どもを育てる時も、こういうことが後で起こるんだと信じて、たくさん語りかけたいです。

 

その時には理解できなくても、いろいろな経験を積むうちに、「こういうことだったのかぁ」という発見につながるはずです。

 

子育てって先が見えないけど、こういうことが信じられるかどうか、自分が試されているのかも。

 

こどもに対して親がすることって、即効性はないし、成功か失敗かもわからないもの。

 

極論すれば、そんなものの枠にははまらないものなのでしょうね、きっと。

 

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カルチャーショック!電車にギューギュー

ある本を読んでいたら、森鴎外の小説の一部が引用されていました。


めったに外に出ない秀麿は、事新しくベルリンの電車と違ふ所を考へた。あっちでは座席が一ぱいになれば満員である。吊革は運転中に電車の中を歩く時掴まるために吊ってあるのだから、それを持って立ち留まると車掌が小言を言ふ。同じ交通機関が出来も、こっちのはなんとなく物足らない心持がする。洋行帰の人の中に、此心持を誇張して故郷を誼ふのなんのと云ふものの出て来るのは、面白くない現象ではあるが、何に附けこの物足らなさの離れないのを、全然抹殺することは出来ないと思ったのである。(森鴎外「藤棚」より)


この文章は、キャパもないのにとにかく西洋文化を取り入れよとしている当時の明治日本を風刺している向きもあるようです。


でも、ワタシが「なるほど」と思ったところは、そのままの光景です。


座席が埋まれば満員と考えるドイツと、


車両にこれ以上は入れない状態が満員ととらえる日本との違いです。


これはドイツに限らないことのようです。


ワタシが実際に経験した、イギリスの地方都市での出来事です。


朝の通勤時間のバスの中でのことです。


さほど混み合っているわけではないのですが、ワタシはバスの通路の前方に立っていました。


何かの拍子にバスが急停車をした際、ワタシはよろけて前に立っていた年配の女性に触れてしまいました。


その瞬間です、”Don’t touch me!”(さわらないで!)


すかさず、”Sorry.”と謝りましたが、ちょっとビックリでした。


本音を言うと、「いやいや、触ってないでしょ、ちょっと触れただけですから。」


まだワタシが20歳前の若かりし頃の出来事です。


この経験は衝撃的でした。


見ず知らずの人に体を触れられることに、こんなに嫌悪感を抱くのか?ってこと。


当時の日本は通勤電車にギュウギュウ詰めにされるのは当たり前のことでしたから。

 

都心の通勤電車でだれにも触れないなんて無理な話でした。

 

それでも、だれも文句を言わない日本は異常なんだとその時初めて実感しました。

 

いつだったか通勤ラッシュが極限に達したころ、座席のない車両を見たことがあります。

 

ラッシュ時の数時間、車両の座席が収納されて座れなくなる車両が導入されたんです。

 

それを見て思いました、「これは貨物だ」。

 

こんなことができてしまうのが、私たちの住む日本なのか。

 

当時は致し方なかったのか。

 

ということは、状況次第では、同じようなことはまた起こる?

 

個人の尊厳について考えさせられるシーンでした。

 

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怒る勇気とは?

岸見一郎さんの大ファンです。

 

岸見さんといえば、『嫌われる勇気』が大ベストセラーになりました。

 

だから、この本『怒る勇気 』も二番煎じや二匹目のドジョウじゃないの?

 

こんなふうに思ってしまったワタシが浅はかでした。

 

手に取って読んでよかったです。

 

『嫌われる勇気』以上に力を与えられた感じです。

 

「怒りの感情は問題解決の手段としては有用ではないことを指摘してきた。怒るのではなく言葉を使って対話をすれば怒りの感情を使う必要はなくなる」(あとがきより)

 

岸見さんの言葉です。

 

では、なぜ『怒る勇気 』なのか?

 

「何も語らない、行動しないのではなく、世界を変えていくための勇気をどうしたらもてるか」

 

こういうことが書いてあります。

 

三木清氏の言うところの「公憤」です。

 

「怒ると、人と人との間に心理的な距離ができる。」

 

「真の怒りは、感情というよりも、むしろ知性に属するのである。」

 

「他者は誰も信じられない。そう思った人は孤独になる勇気を持てない。それでも、この段階を経て、自分を支持する人がいるかもしれないと思った時、他者と結びつくのである。」

 

「声を上げなければならないのにそうすることができない人に代わって声を上げる。そのことが自分を救うことになる。社会の理不尽、職場の不正に自らが声を上げる。自分自身でそれができない人に代わって声を上げる。そうすることは一時的に共同体に「剣」を投じることになっても、真の結びつきを作り出す。」

 

そして、そして、そのためにこそ対話が大事だと岸見さんが教えてくれるのです。

 

最後に、この言葉が突き刺さりました。

 

アドラーが『私はいつもこの世界を変えるために何ができるかを考えている』といったことは先にも見た。理不尽な現実を前にした時に自分にできることは何もないと絶望するのではなく、何かできることを見出していかなければならない。一人の力だけではどうなるわけでもないのかもしれない。しかし、理不尽である世界を変えなければならないと考えた人が集まれば、この世界は必ず変わり始める。」

 

勉強することは力を得ることだよ!

 

世の中学生・高校生あたりの若者に教えてあげたいです。(老婆心ながら・・・)

 

 

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