モヤモヤを抱えて今日も生きる。

とかくこの世は生きにくい。日々モヤモヤを抱えて生きています。モヤモヤジャンルは本・子育て・教育・映画・ニュース・社会などです。あなたに響けば幸いです。

ドラマに映画に小説にと、韓国ものにドはまりです

82年生まれ、キム・ジヨン』が話題だったので関心はあったのです。

 

同書を読もうと思っていて、同著者チョ・ナムジュのこちらを先に手に取ってしまいました。

 

それが、『サハマンション (単行本)』です。

 

う~む、誰かに解説してほしいです。

 

決して難解ではないのですが、理解が進まないのです。

 

韓国という国について、ワタシに背景知識や感覚がないからだと思います。

 

『愛の不時着』を観て、分断した国家に暮らすことにちょっと思いを馳せ、

 

『スカイキャッスル』を観て、社会格差と熾烈な受験環境を垣間見ました。

 

それなのに、『サハマンション』を読んでいて、隣の国なのに韓国のことをなんにも知らないんだなと、痛感させられました。

 

そもそも、人名からして慣れていないものですから、名前を見ただけでは性別もわからないしイメージができない。

 

社会状況も表面的にしかわからないから、人びとがどんな思いで生きてるのか、なんて思いもつかないのです。

 

韓国ドラマにはまっている知人は、「いっぱい観ているうちにわかってくるよ」と、慰めてくれます。

 

訳者による『あとがき』が巻末にあるのですが、ここに書いてある事が理解の助けになります。

 

「あくまで想像上の都市国家が舞台ではあるが、(中略)韓国の現実とゆるやかに地続きの小説といってよいだろう」と書いてありました。

 

なるほど、なるほど。

 

そういえば、映画の『パラサイト 半地下の家族 [DVD]』も独特だったなぁ、って思い出しました。

女の子は年頃になると父親に寄り付かない?

昼休みの食堂で近くから聞こえてきました――

 

「女の子は年頃になると男親には寄り付かないからねぇ~」

 

さらに、「オレがリビングに入っていくとサーっといなくなるからねぇ」

 

あまりの自虐ネタ炸裂に、周囲からは何のリアクションも聞こえてきません。

 

まさか、独り言?っていうわけでもないでしょう。

 

同席している周りの人達がどんな顔して聞いているのか見てみたいのですが・・・

 

「女の子(娘)は年頃になると男親に寄り付かない」は本当なのでしょうか。

 

このお父さん、「さびしい」って言っちゃえば可愛げもあって周囲も慰めてくれるでしょうに。

 

こういうお父さんに限って「子どもに媚を売りたくない」と強がったり、

 

「年頃の娘は男親を避けるもの」などと、誰が言ったかわからないような定型文句をのたまう。

 

娘が父親に寄り付かないなら、当の父親は自身の日頃の言動を顧みた方がいいでしょう。

 

何か娘が嫌がる理由があるのか?ないのか?(たぶん、あるのでしょう)

 

そういうことをしないで、定型文句で片づけちゃうから嫌われるのではないですか。

 

娘から鬱陶しい親って思われないように気をつけなくっちゃ、です。

 

娘だけでなく若者から鬱陶しいと思われない大人になりたいです。

 

坂本美雨さんの子育ての考え方が素敵です

「普段から娘とは対等な関係でいたいと思っていて」

 

「娘とは、今もこれからも、人間同士としてちゃんと付き合っていくことを大切にしたい」

 

ミュージシャンの坂本美雨さんが朝日新聞の連載記事で語っていたことです。

 

父親が坂本龍一さんで母親が矢野顕子さんというミュージシャンの坂本美雨さんです。

 

娘さんの子育てについて3回にわたって連載されていました。

 

読んでいて「素敵だなぁ」って思いました。

 

「私が信頼する人を娘も好きになってくれる」「私が好きな人になついてくれる」

 

坂本さんは、これが「すごくうれしい」と。

 

そうだろうな、と思います。

 

どうやったらこんなふうになるんだろう? 記事にはその一部が簡略に書かれています。

 

「頭ごなしに『だめ』とか『しょうがない』という言葉で娘の話を遮らないように気をつけています。」

 

「なぜなのか説明し、私の知っていることはすべて伝えました。」

 

「答えを出せない問いであっても、『母親がしっかり考え抜いた』という姿勢から何かを感じ取ってほしいなと。」

 

「人生を楽しんでいる姿を娘に見てほしい」

 

「彼女には(仕事場の)そんな私が尊敬する人たちから多く学んでほしい気持ちがあります」

 

う~む。娘さんを信頼し尊重してるってことが伝わってきます。

 

人が人を育てるっていうのはこういうことなんだろう、と改めて胸に刻みました。

 

記事はこちらで見られます⇒キミとどたばた(朝日新聞)

 

あいさつ運動ってどんなエクササイズですか?

学校には、「どうなってるの?」と思うことがたくさんあります。

 

その一つに、「あいさつ運動」っていうのがあります。

 

運動って何なのでしょうか?

 

たぶん、「何かの目的を達成するための活動」という意味で使っているのでしょう。

 

選挙運動とか市民運動のように。

 

しかし、百歩譲っても「あいさつ運動」は何の目的でやっているのか疑問が残ります。

 

あいさつを普及させたいのでしょうか。

 

あいさつってそういうものなのですか。

 

学校時代のあいさつシーンを思い出してみましょう。

 

先生が教室に入ってくると生徒は慌てて席につきます。

 

先生が教卓にスタンバイすると、日直が「起立」と号令をかけます。

 

そして「礼」という合図とともに「おはようございます」となるわけです。

 

しかし、ちょっと考えてみてください。これって不自然じゃないですか。

 

なぜ、先生は生徒の顔を見たときに個別に「おはよう」と声をかけないのですか?

 

生徒の方も、先生を見かけた段階で「おはようございます」と言えばOKです。

 

朝、顔を見たら「おはよう」とお互いに言葉を交わすのがあいさつなのではないですか。

 

「起立」「礼」「おはようございます」「着席」などと不自然なことを平気でやっているのですから、感性が疑われます。

 

こんなことだから「あいさつ運動」とか「あいさつ通り」などの発想が浮かぶのでしょうね。

 

皮肉が過ぎますか? ごめんなさい。

 

アメリカの学校では生徒は掃除をしません

予備校つながりで、思い出したことがあります。

 

予備校はそれまでの学校と比べると教室が大きかった。

 

クラス制をとっている予備校でしたが、クラスの収容人数は高校よりもかなり増えました。

 

教室も大きければ、黒板もビックリするほど大型でした。

 

カルチャーショックだったのは、授業が終わるとその都度、掃除用具が一揃え入ったバケツを持ったオバサンもしくはオジサンが教室に入ってきて黒板を掃除することです。

 

その手際の良さといったら感動的でした。

 

講師が目一杯書き込んだ黒板を専用の道具を使って新品同様に磨き上げていくのです。

 

初めて見たときは、あまりの見事さに休み時間中ずっとその動きを目で追っていました。

 

後になって一緒に仕事をすることになったアメリカ人と、学校での掃除の話になりました。

 

そのとき訊いた話では、アメリカでは生徒が学校で掃除をすることはないそうです。

 

彼の話では、学校内の掃除も一つの労働なので、生徒が掃除をしてしまったらその人たちの職を奪ってしまうことになる、と。

 

日本で生まれ育ったワタシにはその視点はありませんでした。

 

学校の掃除は児童や生徒が自分たちでするものだと思っていましたから。

 

この考えに疑問を持つことすらありませんでした。

 

どちらが良いとか悪いとか正解があるのかどうかもわかりませんが、「こういう考えもあるんだ」と知ったことでワタシの視野は確実に広がりました。

 

当たり前を疑うきっかけになった貴重な体験だったと思います。

 

学校の授業の記憶がないんです

みんなそうなのでしょうか、学校での授業の記憶がないのです。

 

学校を卒業してかなりの年月が経ったからなのでしょうか。

 

そういうことも考えられるのですが、不思議と予備校の授業の記憶は残っています。

 

予備校なんて、大学に行くための手段であって、授業で感動するなんて思ってもいませんでした。

 

それなのに、高校以上に印象的な授業が多かったです。

 

英語も日本史も国語も・・・

 

高校までの学校で記憶に残るほど影響を与えくれた授業は思い出せないのに、予備校の授業は印象深く刻まれているなんて。

 

これってどういうことなのでしょうか。

 

ちょっと考えて思い当たるのは、予備校の授業はレベルが高かったかな。

 

知識を伝授するものだけではなかったように思います。

 

学問の入口を見せてくれたような感じでした。

 

もっと勉強したいという気持ちにさせてくれたような気がします。

 

予備校の授業は学習指導要領などというものに縛られていません。

 

講師は予備校当局から信頼されているのでしょう。

 

たぶん細かいところまで口うるさく言われることはないでしょう。

 

あるのはプロ意識なのだと思います。個性あふれる授業が多かったです。

 

対して学校の授業は国の指針(学習指導要領)に縛られています。

 

これが理由で、各々の先生の工夫する余地が狭まってしまうということがあるのではないでしょうか。

 

そのうち、工夫する努力も怠ってしまうような先生も。

 

だからなのでしょうか、学校の授業が面白かったという記憶がないのは。

 

スウェーデンで長らく学校の先生だった人が言っていたのを思い出しました。

 

スウェーデンの学校では校長から"Do it." も "Don’t do it." も言われない。校長から言われるのは『責任は私がとります』の一言」

 

こういう状況だったら、各々の先生は全力で考えますよね。

 

自分は何をすべきなのかってことを。

「うるせぇ!バカヤロー」と言われたらどうしますか。

子どもの放課後にかかわる人のQ&A50:子どもの力になるプレイワーク実践(遊ぶ・暮らす)』を読んでいたら、「子どもから暴言を吐かれます。どうしたらよいのでしょうか。」という質問がありました。

 

この本はその名の通り、子どもの放課後にかかわるすべての大人に子どもたちへの対応の仕方をアドバイスするものです。

 

世話をしてくれる人に向かって「死ね」「うざい」「キモイ」と暴言を吐く子どもがいますね。

 

幼児が「バカ」とか言うくらいなら、こちらも傷つく度合いも軽いのですが、

 

高学年の子どもに「バーカ」なんて言われるとそれなりに傷つきます。

 

ましてや、これが高校生だったりした時には言われたこちらは立ち直れないくらいショックです。

 

こんな時、あなただったらどんなふうにリアクションするのでしょうか。

 

感情的になって対等に喧嘩を始める。「もう一度言ってみろ!コノヤロー」とかなんとか。

 

上から目線で押さえつける。「大人(親)に向かってなんて口をきくんだっ!」とか。

 

あるいは、「傷つくわ~」ってショックを隠せない。

 

子ども(高校生を含めて)と関わる大人(親・先生・施設職員など)はたいへんです。

 

大人相手の仕事だったらこんな場面に遭遇することは滅多にないでしょう。

 

対応しだいでその後の関係性が左右されるので深刻です。

 

普段から子どもをしっかり見て、理解しようとする心構えを持たないと子どもの相手は務まらない。

 

子育ては修行だ!ってつくづく思います。