モヤモヤを抱えて今日も生きる。

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言うことを聞くと⇒素直な子、権利を主張すると⇒生意気な子

11月20日は国連が定めた「世界こどもの日」です。

 

知っている人は多くないでしょう。ワタシも恥ずかしながら知りませんでした。

 

意識してみると、この日に合わせて話題にしているメディアもあります。

 

先日、TBSラジオの『荻上チキ・Session』を聞いて考えさせられました。

 

日本は、子どもを取り巻く環境について問題アリアリですね。

 

しかも、さらに深刻なのが、この問題が多くの人に問題として認識されていないという現実です。

 

子どもの権利条約というものがあります。

 

1989年に国連で制定されたものですが、日本が批准したのは5年も遅れた1994年でした。これは、世界で158番目でした。

 

日本には「権利なんかを教えると、子どもがわがままになる」という考えが根強いことが影響しているという指摘があります。

 

わがままになんかなりません、自分の権利が尊重されれば相手の権利も尊重する人になるはずです。

 

子どもの権利条約は制定されておしまいではなく、5年に一度の割合で国連の委員会から締結国に勧告が出されています。

 

ご存じでしたか? 上記のラジオ番組でゲストの甲斐田万智子さんが手厳しいお言葉を発していました。

 

日本政府の態度について、「勧告をされてもされても無視している」と。

 

ワタシも調べてみてビックリです。特に気になったのが「子どもの意見の尊重」という項目です。

 

文言をそのまま抜き出すとこんな感じです。

 

「自己に関わるあらゆる事柄について自由に意見を表明する子どもの権利が尊重されていないことを依然として深刻に懸念する。」

 

「すべての子どもが意味のある形でかつエンパワーされながら参加することを積極的に促進するよう、勧告するものである。」

 

これ、ほんの一部です。

子どもをバカにしない大人

「私は子どもをバカになんかしません!」と、大人は言うでしょう。

 

でも、バカにしている意識はないけど結果的にバカにしているんじゃない?ってことはよくあることです。

 

もうちょっと穏やかな言い方をすると、「子どもを尊重していない大人」はいっぱいいます。

 

ちょっと気を抜くと、自分もそういう大人になってしまう可能性大です。

 

それほど、子どもを尊重することって難しいことだと思います。

 

「あなたのためよ!」とあれこれ手を出すのも、「がんばれガンバレ」って追い詰めちゃったり、オットセイに芸を仕込むみたいにこれでもかと教え込んだりするのも・・・

 

これみんな、子どもを尊重しているとはいえない行為かも。

 

親の自己満足だったりするのかもしれません。

 

絵本作家の五味太郎さんの本を読んでいたらそんなことを思いました。

 

 

この本に書いてあることは一言でいうと「子どもを尊重しよう」ということだと感じます。

 

でも、これは本気でそうしようと思ったらすごく難しいことです。

 

五味太郎さんが最後の方で語っています――

 

『要は、子どもが充実して生きてゆけるために、大人の存在がどの程度役に立つか、あるいは一歩下がって、大人の存在の害がどの程度少なくてすむかということです。』

 

この本を読んでカチン!と来てしまう大人もいるでしょうね。

 

「なんでも文句を言う子になってほしくないから、子どもにはこの本を読ませない」という大人がいるとかいないとか。

 

あぁ、子どもを尊重するってことは、なんと難しいことか。

 

「知らない・興味ない・関係ない」

国連の気候変動対策の会議「COP26」が閉幕しました。

 

若者に「知ってる?」って訊いたら「知らない」。

 

「どう思う?」って訊いたら「興味ない」さらには「関係ない」と。

 

かなりガクッときます。もうこれ以上はこちらが持ち堪えられない。

 

こんな場面に遭遇したら、あなたならどう対応しますか?

 

考えてみたら、若者がこんな反応になるのもわからなくはありません。

 

ワタシもちょっと気を抜けば同じようなスタンスに陥ってしまいます。

 

今回の会議では、「石炭火力発電所について段階的に廃止する」という提案の「廃止」が「削減」するに変更されました。

 

採択直前の土壇場でインドが変更を提案して、マーシャル諸島代表が変更提案に反発しました。

 

マーシャル諸島は温暖化の影響をもろに受けるところ。

 

しかし合意しなければすべてが無に帰してしまうため、代表は「私たちの島に住む人たちの命にかかわる要素を含んでいるからだ」とその理由を述べ最終的にはインドの変更を受け入れました。

 

苦渋の選択だったのだと推測します。

 

シャルマ議長は「申し訳ない。だが最も大切なのは文書全体が守られることだ」と、声を詰まらせて述べたというではありませんか。

 

環境活動家のグレタさんは「会議は形だけのもの」と批判していますが、それでもです。

 

それにしても気になるのが、日本の政治家ですよ。「化石賞」なる不名誉な賞も贈られています。

 

オバマさんやカマラさんの本を読んだ時にも思ったのですが、日本のトップの政治家に気概が感じられません。

 

こういうところが日本の若者に影響しているのは確かだと思います。

 

学校のどこが問題かを考える

自動車学校になぜ行くのか?

 

こんなふうに自動車学校に行く目的をわざわざ訊く人はいませんよね。

 

答えが決まっているからです。自動車運転免許を取るためです。

 

じゃぁ、学校はなぜ行くのでしょうか?

 

こんなことを訊く人も考える人も、今よりずっと前はいなかったと思います。理由なんか必要なかったからです。

 

でも現代は「なぜ学校に行かなきゃならないか?」と考える場面が多くなりました。

 

それほど、学校というところが楽しくないところ、行きたくないところに成り下がってしまったからでしょう。

 

本来、こんなこと考える余地がないくらい楽しいところだったはず。

 

(もしかしたら、逆に考える余地も与えられないくらい強制的な場所だったか?)

 

学校に行く目的を高校生あたりに尋ねると返ってくる答えは、「高卒の資格がほしいから」。

 

これじゃ、自動車教習所と同じじゃないですか!?

 

学校っていうところは何か特定の目標があって行くところじゃない!とワタシは思います。

 

「学校を卒業する時には、入学した時の自分には想像もできなかった自分になっていた」と思わせてくれる場所が学校なのだと。

 

自動車学校で「自分が変わった」「思ってもいなかった自分を発見した」ということはほとんどありません。

 

しかし、こんなことが起こるのが学校なのです。

 

だから、卒業が感動的なんだと思います。卒業した後も仲間に会いたくなるのもそのためです。

 

自動車学校の卒業アルバムなんて聞いたことないし、同窓会がないのも当たり前です。

 

学校は、「決まった作法を身につけて、教えられた知識を頭に入れて、試験に合格したら卒業です」とはならないはずです。

 

「入学前には思ってもいなかった自分になった」と思わせる経験ができなきゃ学校じゃないのです。

 

今の学校にはワクワクがないんです。

 

はじめての履歴書

高校生くらいになると就職や進学に際して履歴書を書くようになりますよね。

 

これは、こどもたちにとってはかなり大変なことみたいです。

 

特に自分の長所を書くってことが簡単じゃないようです。

 

自分の良いところをつらつらと書き綴るなんて、純な気持ちを持っている高校生あたりには恥ずかしくってできないです。

 

自分を美化しているようでいやらしいと感じたりしてしまうかもしれません。

 

しかも、自分の長所や短所なんて普段意識して生活していませんから。

 

だから、すっごくハードルが高いということをわかってあげたいです。

 

そのうえで、そんな話題が出たときは当人の長所や短所について一緒にあれこれ話をしてあげたいです。

 

つまり、「あなたってこんな素晴らしいところがあるよね」とか「自分の嫌だなって思うところは無い?」って具合に一緒に語ることです。

 

言ってやっちゃいましたよ、「長所なんてなりたい自分を書いちゃえばいいんだよ!」って。

 

ちょっと乱暴だったかな。

 

でも、90パーセントは本気です。

 

「こんな人になりたい!」って思うモデルを描ければ、もうほとんど成功ですから。

仕事を前にするとプライベートは後回し

「・・・さっと仕事モードに切り替わる。しかしその反対はない。プライベートに仕事がはみ出してくるのはしょっちゅうだった。どうしてなんだろう。大切な家族のことのはずなのに箱詰めして蓋をするみたいに、仕事を前にすると後回しにしてしまえるのは。」

 

今、読んでいる小説『あなたを愛しているつもりで、私は――。娘は発達障害でした』の一節です。

 

小説のお話は別の機会にしますが、内容に関係なくこのフレーズが頭の中に残っていつまでも付きまとうのです。

 

どんなに私生活で悩みを抱えていても仕事となるとスイッチが入るが、その反対はない。

 

ワタシも全く同じです。どうしてなんでしょう。

 

みんなこんなふうに思っているのでしょうか。

 

あまりにも自分の気持ちを上手に表していたものですから、頭から離れなくなりました。

 

仕事がそれほど大事か?って訊かれると、それほどでもないのです。

 

私生活の方が大事に決まっているのに、いったん仕事となったらプライベートは後回し。

 

もしかしたら、仕事が救いになっているのかな?

 

仕事が悩みからしばし自分を救ってくれるのかもしれない。

 

仕事はいろんな人が関わっているからないがしろにできない、というところがそうさせているのかも。

 

「仕事はプライベートに優先する」という認識が多くの人に共有されているからなのでしょうか。

 

そういえば、仕事を理由に家事から逃れることもありますよね。

 

なんだかパラレルワールドに生きているみたい。

 

いろんな世界を持っていることが思わぬ救いになるということか。

 

でも、「その反対がない」のはどうしてなんだろう。

 

モヤモヤは消えない・・・

 

こどもは勉強が仕事!ホントにそう思う?

「こどもは勉強が仕事なんだから、しっかりやりなさい」

 

こんなふうに大人から言われたことがある人がいるかもしれませんが、これってすごく違和感があります。

 

なぜって、働くことは義務であり、学ぶことは権利だからです。

 

これは日本国憲法にも書いてあります。

 

だから、「勉強」=「仕事」にはならないでしょ!

 

「大人は仕事して金がもらえるのに、ぼくたちは勉強しても何ももらえない」

 

こんなふうになげいていた若者に言ってやりました――

 

「学生には生活を保障するから仕事なんかしないで勉強していていいよ、という特権が与えられているんだよ」と。

 

そうです、学生は身分なのです。

 

大人は仕事を離れたらただの人ですが、学生は寝ても覚めても学生なのです。

 

学生は寝ている時以外は常に勉強していることが期待されているわけです。

 

それが嫌ならさっさと働け!ということです。

 

しかし、これは昔の話で今時の若者にはこんなことは言えません。

 

勉強することは楽しいことだったはずなのに、勉強が楽しいと思う若者が少なくなったなと感じるからです。

 

「大人は有給休暇があっていいな、ぼくも学校休みたい」という子どもの声を聞いて胸が痛くなりました。

 

ここまでに追い詰められてしまったか。

 

くり返しますが、本来、学ぶことは楽しいはずなのです。

 

でも、今はそれを子どもに実感させられない。

 

何と悲しい現実。こんなふうにしてしまったのは大人の責任です。

 

学校に行くことに困難を感じる生徒がこんなにたくさんいる現実に責任を感じます。