日本社会の息苦しさが凝縮された世界、
それが学校という所らしい。
これは斎藤環氏が、佐藤優氏との対談本『なぜ人に会うのはつらいのか』で語っていたことです。
学校が逃げたくても逃げられない場所になっているとは、なんとも不幸なことです。
「基本的に子どもや個々の先生、学校の責めに帰すべき問題ではないはず。」とは佐藤優氏。
不登校の急増に対しての佐藤氏の考えです。
じゃぁ、実際にはどうしたらいいの?と、解決策を聞きたいのですが、
そこは、対談本ですからはっきりとはわかりません。
ただ、「逃げろ!」というメッセージは伝わってきました。
「絶体絶命になったら逃げるというのは、立派な問題解決の手段、賢い生き残り術だということを、あのときに学んだ気がするのです。」(佐藤氏)
「いざとなったら問題から逃げてサバイバルを図るというのは、とても大事なことです。」(斎藤氏)
これにはワタシも同感です。
ただ、聞こえてくるんです。「逃げたら負けだゾ!」というフレーズが。
なんででしょうね? そういう教育を受けてきたっていうことでしょうか。
「逃げることは負けじゃない! 悪いことじゃない!」
こうやって、声を大にして伝える必要がありそうです。
先の対談本の中におもしろい話がありました。
佐藤氏が提案するイソップ寓話「すっぱい葡萄」の新解釈です。
たわわに実ったぶどうをキツネがジャンプして採ろうとしますが、どうしても届かない。
最後には「どうせ酸っぱいに決まってる」と自分に言って納得させるというお話です。
負け惜しみですね。
これでも良いのですが、佐藤氏は更に解釈を進化させます。
まず、ぶどうは「偏差値の高い学校とか大企業や官庁のしかるべきポスト」
みんながそれに向かって競争させられていたわけです。
首尾よくぶどうにありついても、それで終わらない。
「会社なら社長、中央官庁なら事務次官、大学なら学長のポストという、より高いところになる葡萄を目指して、延々”椅子取りゲーム”に興じることになるかもしれません。」
そうです、競争は続くのです。
こんな競争からは降りるのが勝ちです。逃げるのです。
佐藤氏も言っていますが、「だいたい狐は基本的に肉食ですから、葡萄なんて無理して食べる必要はないのです。」
この発想の転換が必要だと思います。