この時期は、なにかと戦争が話題になります。
広島・長崎の原爆忌に8月15日の終戦記念日。
夏の風景にはこれらの一つひとつが漏れなくついてくる。
8月10日(月)の朝日新聞に「保阪正康の継昭開来」という記事がありました。
今、私たちに求められていることとして、
8月15日を平和への分岐点として「思想化」すべきときなのではないか、と問う。
難しい!どういうことだ?
日本は先の戦争で、戦勝国から徹底的に糾弾され、その裁きを受け入れた。
その裁きを受け入れた瞬間、日本はある権利を手に入れた。それは、自分たちが裁かれたのと同じ理念でもって、今度は「裁く」側に回る権利だ。
保阪氏は続けて、こうもー
裁かれたことに納得し、だからこそ他国の侵略や非人道的な行いに異議申し立てをする道義的な権利と責任だ。
その通りだと思います。
ナショナリズムにも2つあって、それが「上部構造のナショナリズム」と「下部構造のナショナリズム」。
「上部構造のナショナリズム」は国益の守護、国権の伸長、国威の発揚なんかで、
「下部構造のナショナリズム」は日常生活の規範、倫理観、郷土愛、先祖を敬う精神などの生きる知恵。
この2つの構造の闘いだったわけですね。
つまり、
江戸時代から受け継がれてきた下部構造のナショナリズムを上部構造が強権的に抑圧したのが一連の戦争といえる
あぁ、納得!です。
思想家の柄谷行人は、憲法9条がいままで改正されずに残っているのは、人々の無意識に根ざしたからだと論じる(憲法の無意識)。
なるほどね。
ワタシ、毎度のことなんですが、毎年8月15日の全国戦没者追悼式での天皇のメッセージにもシンパシーを感じるんですよね。
なんでだろー?って思ってたのですが、いまわかりました。
それって、歴代の天皇のメッセージに「下部構造のナショナリズム」が反映していたからだったのですね。
戦争を始めるのは、いつも国家なんだよな。
国民でも天皇でもない。
危ないのは政治家だ。