韓国のドラマや映画を観たり、小説を読んだりして思うのは、日本にいる自分のことです。
お隣の国なのに、歴史が違うから人びとの生き様も自然と違ってきますね。
日本は1960年代に安保闘争や学園紛争がありました。
韓国は1980年代に「ソウルの春」や「光州事件」、「六月民主抗争」などがありました。
時代と人びとの暮らしや生き様を対比して考えると、何らかの関連が見えてきておもしろいですね。
日本はその後、経済的急成長を遂げ、バブルを経験し、就職氷河期に若者が苦しみ、経済低迷の今に至る。
韓国は今、どのあたりにいるのだろうか?と想像しながらドラマや小説を楽しんでいます。
『三十の反撃』も、そんなことを考えさせられました。
「世の中は何歩か前に進んだけれど、その何歩かがすべてのようだ。依然として理不尽が幅を利かせていて、もちろん普通の人の時代は来なかった。」
「私が一番うんざりしている言葉が何かわかりますか? 頑張るという言葉。頑張って生きろという言葉。頑張るのはもうたくさんです。」
「・・・すき好んでそんなことを言う人になったわけではなく、彼女を心底そう考えるようにさせた社会のあり方が問題なのかもしれない。正しいことを直言すれば睨まれて、嫌な仕事を押し付けられ、耐えられなくなって職を失う・・・・・・。」
「間違っていることを間違っていると言うだけでも、少しは世の中が変わるのではないかと」「うらやましいです、その勇気が。私は絶対にそんなことできません。何かが間違ってるとは思うんですけど、決して行動にはつながらないんです。できないんじゃなくて、やらないんですよ。やらないからできない。つまり私は、拍手を送る側の人なんです。主人公じゃなくて観客、芸術家じゃなくて大衆です。私はそういう人間です。救いは、ほとんどの人が私と同じだということくらい」
「塵が集まって宇宙になるからといって、自分が塵だと言われたらうれしくないですから」
「観客が舞台の上に上がるなんて考えてもみないだけで、すべての観客は舞台の上に上がることができるんです。そして・・・・・・舞台に上がらなければならないんです、今こそ。世の中っていうのはもともとそういうものです。誰かが行動しなければ、何も変わりません」「行動したからって、変わるんですか?」「さあ。確かなのは、何かが少しも変わらなかったとしたら、それはだれも行動しなかったということです」
どんな時代でも、人びとは懸命に生きているんですよね。
何者でもない自分、自分は宇宙の塵のような存在・・・
時代に生きているけど・・・、時代の影響を受けているけど・・・、自分の存在は塵のよう。
自分なんか、取るに足らないちっぽけな存在で、いてもいなくてもなんにも変わらないんじゃないだろうか?
世代が違うから・・・、立場が違うから・・・、だから、分かり合えるなんてありえない。
みんながそんなふうに思って孤立してしまっているように思えます。
こんな世の中を生きていくのはつらいです。
この小説が多くの人にウケるのは、その辺に理由がありそうです。