「駅ピアノ」や「世界街歩き」というテレビ番組を好んで観ます。
他の国の普通の人の暮らしが垣間見えるのがおもしろくて、惹かれるんですね。
そこに出てくる、普通の人が語ること、これがまた哲学的だったりして。
ただ街のカフェでコーヒーを飲んでる人だったり、犬の散歩をさせてる人だったりですよ。
そういう人が、口を開くと「おっ!」と思うようなことをのたまうのです。
ピアノを弾く人に至っては、ほんのちょっとの言葉に人生がにじみ出ていたりして。
みんながみんな哲学的なことを考えてるわけではないでしょうが、
それにしても、話すことひとつひとつが魅力的なんです。
自分の国と違いすぎていて、どうしてなんだろう?っていつも思うのです。
そんな時にネットで、「フランスの高校卒業試験は、なぜ哲学が必修なのか? 社会で生きる「武器」としての哲学」という記事を読みました。
坂本 尚志氏の著書『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』から抜粋して再編集されたものです。
やっぱり、教育が影響してるのかなと、そんな印象を持ちました。
バカロレア試験というのは、ワタシも何度か耳にしたことがあります。
フランスの高校生が卒業時に受ける試験ですよね。
その問題を聞いてびっくりです。
たとえば、21年の哲学の問題はコレです。
1.議論するとは、暴力を断念することか?
2.無意識はあらゆる認識の形式から逃れているか?
3.われわれは未来に責任を負っているか?
これが、小論文の問題だそうです。
いかがですか? 大人だって訓練していなかったら書けないと思います。
もっとも、哲学の問題はフランスの高校3年生にとっても、及第点をとるのは難しいそうです。
ただ、哲学を学ぶことによって生徒たちが「考える自由」を手に入れるのだとか。
「哲学教育によって、高校生たちは市民として必要な考える力を身につけることを期待されています。そしてその考える力は、言葉にされることではじめて評価されるのですから、表現力を育てることにもつながります。」
「哲学は、市民にとって必要な、思考し、表現する能力を育てるのです。」
まさに、これじゃないかな。
日本に欠けていて、フランスにあるもの。
そこそこの知識を持った均一な労働力を輩出する時代はとっくに終わったんじゃないか。
私たちの国の若者に求められるものは、「社会で生きる武器としての論理的思考力・表現力」じゃないですか。