モヤモヤを抱えて今日も生きる。

とかくこの世は生きにくい。日々モヤモヤを抱えて生きています。モヤモヤジャンルは本・子育て・教育・映画・ニュース・社会などです。あなたに響けば幸いです。

「車内置き去り」を防ぐシステム

幼稚園の通園バスに置き去りにされて園児が死亡した事件の続報が伝えられています。

 

いくつもの人為的ミスが重なって事故に至ったとのこと。

 

実態が明らかになるほどに、園側の責任感の欠如が浮き彫りになります。

 

子どもを預かる任にある人たちには心してもらいたいです。

 

そして私たちにできることって何かを考えないといけません。

 

そんなふうに思っていたら、外国にはちゃんとあるというではないですか。

 

CPDという幼児置き去り探知システムを搭載する自動車が増えているとか。

 

CPDとはChild Presence Detectionの略です。

 

アメリカでは法制化の動きもあるし、ヨーロッパでは車両の安全性能評価基準に加えられるという動きもあるそうです。

 

これらは乗用車の話ですが、お隣の韓国では通園バスに置き去り防止機能が設置されているとか。

 

バスのエンジンを切ってから3分以内に最後部座席にあるボタンを押さないとブザーが鳴る仕組みです。

 

運転手なり添乗者なりがバスの最後部まで行って、そこにあるボタンを押さなければならないってことです。

 

どんなに注意していても、人為的ミスをゼロにすることは不可能ですから、

 

こういうシステムの力を借りる必要があると思います。

 

コストがかかることですから嫌がる向きもあるでしょうが、命には代えられません。

 

CPDのことは文春のネット記事で、韓国の事例はNHKラジオで知りました。

 

通園バスにこのようなシステム搭載を義務付ける法律などが必要だと思います。

 

私たちはこういうことを知って、国や自治体に働きかけなくちゃいけないんじゃないか。

 

ワタシにできることをちゃんとやらなくては、と改めて思いました。

 

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「意味がわからない」とは言えないワタシ

また、痛ましい事故が起きてしまいました。

 

認定こども園の通園バスに園児が置き去りになり死に至ってしまった事故です。

 

このことがメディアで取り上げられてかまびすしいのですが、

 

その中で、テレビのコメンテーターのコメントにちょっとモヤモヤを感じました。

 

この方は「確認をしない意味がわからない」とぶぜんとした表情で発言したそう。

 

たしかに、その通りなんですけど・・・

 

ワタシも聞いた瞬間に、「どうして?」と思いました。

 

この手の事故があったばかりなのに、どうしてまた・・・

 

親御さんや連なる方々にとっては悲痛な出来事です。

 

怒りを感じ、それをあらわにしても当然のことだと思います。

 

ワタシが当事者だったら、園の関係者に詰め寄っているだろうと思います。

 

「ぜったいにゆるせない!」と。

 

ただ、部外者の身としては感情的な発言は控えたい。

 

ましてや、公のメディアに乗るとしたら・・・です。

 

しかるべき機関が現場を検証して相応の罰をくだすことでしょう。

 

ワタシはその任にないということを感じるのです。

 

事故を起こした園の関係者は攻められても仕方のないことです。

 

ひと一人の命を死に追いやったのですから当然です。

 

いかなる攻めも受けなければならないと思います。

 

ただ、そうであるから尚更、部外者のワタシは静観したい。

 

非難されて当然の人に向かって、さらに追い打ちはかけたくない。

 

自分は安全な場所にいながら、正義をかざして非難するのはどうなのだろう?

 

ただただ痛ましい。

 

親御さんや連なる方々はどんなに悲しく苦しいことか。

 

ワタシには祈るしかない。

 

そして、こんなことが再び起こらないようにするにはどうすればいいのか。

 

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みんな大人になる-ボクの場合④

ボクは父に叱られたことがない。

 

接触がなければ当然叱られるという場面もないわけだが、

 

決してそういうわけではない。

 

むしろ、身の回りの世話をしてもらうことが多かったように思う。

 

休みの日にはボクを連れて親戚の家に遊びに連れてってくれた。

 

職場にボクを連れて行ってくれたことも一度や二度ではない。

 

父の仕事仲間とも顔見知りになって、ずいぶんとかわいがってもらった。

 

シャツが出てしまうと、父がしゃがみ込んで、

 

ボクのズボンを引っ張り上げて、シャツをしまってくれた。

 

コーヒーが好きで、豆を自分で挽いて淹れていた。

 

サイホンでコーヒーを入れる様を初めて見たときはびっくりした。

 

水が入ったフラスコみたいなやつに、アルコールランプの炎を当てると、

 

温められた水が、お湯がサーっと吸い上げられていく。

 

初めて見たときの驚きは今でも忘れられない。

 

不思議で不思議で、何度もねだって見せてもらった。

 

そんなボクの様子を父はどんな気持ちで見ていたのだろうか。

 

父は叱ることをしなかったばかりか、

 

なんにも教育的なことをしてもらった記憶がない。

 

勉強を教えてもらった記憶もないし、

 

何かの価値観を伝えられたこともない。

 

ただ、ただボクが一緒にいることを喜んでいてくれたように思う。

 

ボクはそんな父のそばにいるのが心地よかった。

 

自分が親になって思うことだが、

 

どうしても、親というものは親らしいことがしたくなってしまうものだ。

 

子どもに何かを教え諭すということがやってみたくなる。

 

それが親だと思い込んでいるのかもしれない。

 

その点、父は立派な人間だったといえるのかもしれない。

 

はたまた、ただの凡人だったのか。

 

生きているうちに、聞いてみればよかった・・・

 

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『ミシンと金魚』がおもしろかった

永井みみさんのデビュー作『ミシンと金魚 (集英社文芸単行本)』を読みました。

 

読み始めてすぐに、カケイさんの独特な語りに引き込まれてしまいました。

 

認知症を患う「あたし」がカケイさんです。

 

このカケイさんの語る内容が壮絶な女の一生なんですね。

 

でも、このカケイさんの語りがとぼけているのでそれほど重くならない。

 

むしろユーモラスですらある感じです。

 

生まれて老いて死ぬのは、誰でもたどる道です。

 

自分もこんなふうに老いていくのかなぁ。

 

老いるっていうのはこんな感覚なのかなと想像させます。

 

内容もおもしろいのですが、

 

この小説の作風です。

 

小説全部がカケイさんの世界で、

 

カケイさんの話を近くでずっと聞いているんじゃないかと錯覚さえ覚えます。

 

終わりの方にこんな一節があります。

 

「しみじみ、おもう。

わるいことがおこっても、なんかしらいいことがかならず、ある。

おなし分量、かならず、ある。」

 

自分にも、こんな老いと死がやってくるんだろうな?

 

そのときは、カケイさんと同じような心境になれるのかなぁ。

 

 

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バカロレアの哲学が市民を育てる

 

「当たり前」を疑うための「型」を学ぶ

 

フランスの哲学教育を言い表した言葉です。

 

バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』という本のなかに書いてありました。

 

フランスにはバカロレア試験というものがあると、以前から聞いていました。

 

バカロレア試験はフランスの高校生が受けるものですが、その中の一科目が哲学です。

 

そして、そこで学ぶのは「思考の型」だそうです。

 

実際にバカロレア試験で試されるのも、この「思考の型」がマスターできているかどうか。

 

「思考の型」とは「一文で表現される問題を決まった手続きによって分析し、解答を『導入・展開・結論』という三つの部分からなる構成に従って書くという・・・答案作成の方法です。」

 

フランスの「哲学教育の目的は、権威を鵜呑みにせずに自分で考え、発言し、行動することができる市民を育てること」

 

「思考の型は、そうした市民が身につけているべき、思考し、表現する作法の基礎となるもの」なのだそうです。

 

フランスで「市民」とは「多様な意見を理解し、時には同意し、時には反論するような健全な意見表明・・・を行うための能力を持った人々」ということになるようです。

 

なるほど、国会ですらまともな議論ができてるとは言い難い日本のことを考えると、

 

これは、なんとも素晴らしい考え方だと感心します。

 

もっとも、フランスでも手放しで賞賛できるほどうまくいっているわけではないようですが。

 

それでもね、ワタシなんぞはこの理念に感服します。

 

民主主義を支えるのは良識ある市民ですからね。

 

「民主主義社会における市民とはどういう存在か、そしてそれはどのように育てられるのか」

 

日本でも、こういうことをちゃんと議論できる土壌を作らなくてはダメだと思います。

 

「自分の考えを主張するだけでなく、相手の主張にも耳を傾け、その論理を内在的に把握した上で批判する」

 

「こうした議論の組み立て方を繰り返し学び、身につけることは、おそらく日本のわれわれにとっても重要であると思われます。」

 

ワタシも、この著者の考えに賛成です。

 

 

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若いときには考えてもみなかったこと

そんなに頻繁ではないのですが、

 

定期的に書店を訪れて結構な時間を費やしてうろつきまわります。

 

そして、向こうから呼ばれたように感じた本を何冊か買って帰ってきます。

 

この本もその中の一冊でした。

 

新聞記者、本屋になる (光文社新書)』というタイトルの新書です。

 

どうして、惹かれたんだろう? 

 

読み終えた今、考えてしまいました。

 

この本はタイトルの通り、新聞記者をしていた著者が

 

定年を前にして、職を辞して本屋を始める実際の話です。

 

読み終えた後、遠くを眺めるようにしばし考えてしまいました。

 

新聞記者という職業のリアルをもっと知りたかったのかもしれません。

 

それが、どうして本屋を始めようと思ったのかが知りたかったのかも。

 

本屋さんは好きですが、べつに自分がやろうとは思っていないので、

 

転職の、その心理が知りたかったのかもしれません。

 

あっそうか、そうなのかも、のぞき見趣味ですかね。

 

今、そんな気がしました。

 

ひとつのキャリアをずっと歩いてきた自分にとって転職って魅力があります。

 

ただ、よっぽどのことがない限り、職を辞して別の道を歩む勇気がないなぁ。

 

それをやれる人ってどんな人なんだろう?という興味があったのも確かです。

 

参考になったか?といえば疑問ですが、それなりにおもしろく読めました。

 

最後の、「定年後の人生を考えている人たちへ」という節が妙に引っかかります。

 

「始めるのに遅すぎるということはない」

 

「心に引っかかったことがあったらそのままにしないで一歩踏み出してみる」

 

あまりにも、よく言われていることで陳腐なんですけどね。

 

改めて、胸に突き刺さってくるようです。イタい

 

 

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『ディア・ペイシェント』を読みました

どんな職業も、自分が就いてみないとわからないもので、

 

医者も例外じゃないですよね。

 

一般人のワタシでも、病気になればお世話になりますから、

 

それなりに医者との付き合いがあるわけです。

 

そうすると、外から見てもある程度は想像がつくものです。

 

それでも、どんな職業でもなってみないとわからないことってあります。

 

医者といえば、高給取りで社会的にも世間から一目置かれていい身分って感じです。

 

それでも、勤務医なんかは忙しくてお金を使う暇がないなんて話も漏れ聞こえてきます。

 

そんな医者のリアルな世界もちょっとは覗いてみたいもの。

 

南杏子さんの『ディア・ペイシェント 絆のカルテ (幻冬舎文庫)』を読みました。

 

これは、すでにNHKでドラマ化されていたんですね。

 

ドラマの方は見逃してしまって残念に思っていました。

 

でも、原作本かドラマか?といったら、原作本から入るタイプなのでオッケーです。

 

主人公は30代半ばの女性医師です。

 

民間総合病院の勤務医です。

 

彼女の仕事や葛藤がリアルに描かれていて引き込まれます。

 

「この物語を読み始めてから、しばらくはとても不快だった。」

 

こんなふうに「あとがき」に書いているのは、医師で作家の中山裕次郎氏です。

 

「同業者として医者目線で読むと、そのあまりのリアルさに日々の診療を思い出す」から。

 

特に、若い医者は大変そう。さらに大変なのが女性医師だと思います。

 

あるテレビ番組で、若い勤務医が「なんで医者になったんですか?」と尋ねられ、

 

「う~ん」と考え込んでしまって、その後の言葉が出てこなかったシーンを思い出しました。

 

この医師も最初は夢や希望があったのでしょう。

 

しかし、毎日の激務にそんなこともどこかへ吹っ飛んでしまったのかもしれません。

 

それが、今の若い医師のリアルなんだろうと推察しました。

 

責任が重く過酷なだけで報われない仕事

 

医師という仕事が、こんなふうに思われてしまったら誰も得をしません。

 

身近に医療従事者がいたりすると、この本も読んでいて苦しいかもしれません。

 

でも、最後には爽やかな気持ちになれました。

 

「だから、治すための医療だけじゃなくて、幸せに生きるための医療を考えてきた。たとえ病気があっても、その病と共存して、最後まで心地よく生きられるような治療を誠実にやってきた。その先に死があっても、それは受け入れる」

 

「ささやかな医療であっても、誠実ならばその気持ちは必ず患者に伝わる。愚鈍に見えても、いつかそれが王道だと知ってもらえる。誤解を生んでも、時を超えて理解されるときがくる。力不足だったという経験を糧に、精進すればいい。最初から完璧な医師なんていないんだから」

 

こういう言葉が胸に迫りました。

 

どんな職業にも通じるものなのかもしれません。

 

「誠実であり続けよう。温かい言葉で満たそう。」

 

ワタシも同じ気持ちになれました。

 

とても穏やかな気持ちで最後のページを閉じました。

 

 

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